武蔵病院

 半月前に行った息子の耳の検査結果を聞きに病院に出かける。


 検査結果は、
「耳に異常はありませんでした」
 予想がついていた結果ではあるが。


 その後、じゃあ何で息子の言葉はまともに出てこないのか。という話は、なんだか雑談のようであった。結局、「わからない」のだ。息子を見てわかる症状としては、「多動」「言葉の遅れ」「儀式的なこだわり」などがあるが、じゃあ、それは一体なぜなんだ、と、なると、「不明」としかいえない。そういうことらしい。


 「自閉」や、「発達障害」というのは、どうやらまだ学術研究の世界にある事象らしい。毎年毎年、いろんなえらいひとがいろいろなことを言っては、翌年いやそれは否定的だ、と、ほかのえらいひとたちから反論されていたりする。


 今日はじめてあった担当の先生も、見た感じ研究者のような方だった。国立の病院だからだろうか。


 じゃあ、今後どのように接するべきか、という問いには、ただの単なる他動児として接するよりも、自閉であるととらえて接するべきでしょう。とのことだった。しかし、「自閉として接する」とは言っても、儀式的行動一つとっても、「自由にさせる派」と「矯正させる派」が居て、「今はどちらかといえばゆるい矯正が主流だ」などといわれたりする。「今は」やら、「どちらかといえば」など、不確定要素が多すぎで、やっぱり「医者」の言葉ではないのだな、と感じてしまう。
 その子に合った対応方をちゃんと見つけるのが親の仕事なんだろう。しかし親だからと言って、正しい方法が見つかるんだろうか。医者よりは見つけやすいのか。そのみつかった方法は正しいのか。常に不安との戦い。


 遺伝情報も調べておきますか。と問われ、はい、やれることは何でもやっておきましょう。とお願いする。遺伝的気質が原因であることも「まれに」あるらしい。


 まれにあるかもしれない、の検査で、息子は血をたくさん採られていた。採血の針が痛かったらしく、大声で叫んでいた。痛いだろうが、かわってあげたくても代われない。息子の叫びと涙の価値位は得られるのか?


 10時の予約で病院に入り、10時半まで待たされ、病院を出たのは1時近く。が、まだ陽も高く、時間もあるし、滝でも見て帰るかと、車を西に向わせた水曜の午後だった。